くまそさんの留学雑記②

・いざ、常夏の国へ

とにもかくにもという感じでフィジー留学が決まり、あれよあれよという間にフィジーに行く日が訪れてしまった。まあ実際は親子丼を作るよりは複雑な過程を経てその日を迎えたわけだけど、留学一週間前に航空券がないことに気づいたり、パスポートの申請を忘れていたり、犬にビールを与えてみたりして、とかく直前になってドタバタしながら語学留学出発の日取りを迎えた。

フィジーという国は日本から直行便がなく、ニュージーランドや香港なんかを経由して行かなければならない。私の場合は香港経由だ。羽田空港国際線からの出発であった。

香港までの機内で、運が悪いことに私の周りには、ちょっと小金があるから中国行って点心食ってエステ行って、テンション次第では上海蟹に噛り付いてやろう!っという、資本主義の残りカスみたいな考えが顔面から躍り出ているババア一味が陣取っていた。せっかく海外だ!っと勇んでいる私である。そんな日本的な光景は勘弁こうむりたい。何だか「熊本農協婦人会」みたいなノボリが近くにありそうで怖い。

予想違わず、ババア一味は元気ハツラツであった。通路側に座ったから良かったものの、これが窓側だったり三列シートの真ん中だったりしたら目も当てられない。奴らはガイドブックをバッグから引っ張り出し、パスポートを引っ張り出し、よく分からない飴を引っ張り出しでとにかくうるさくてかなわない。早いとこ自らの御霊も引っ張り出してもらえないだろうか、その引っ込みのつかない腹から、っと思っては見るのだが、引っ込み思案の私は、ババアAから「お兄ちゃん!これどうやって開けたの?」っと機内食のオレンジジュースを渡されると、曖昧な笑顔でそれらをプチンと開けるしかないのであった。


機内ではさすが国際線、ビールを無料で飲むことが出来た。ここでアップルジュースでも飲もうものなら末代までの恥である。私は意識して横に座る肉塊群を無視しつつ、CAが通り過ぎる度にビールを所望し、ヨレヨレになりながら香港空港に降り立ち、無事飛行機の乗り継ぎを済ませてフィジーへの飛行機とぶっこんだのだった。

やはりフィジーへ向けた飛行機となると、黄色人種の割合はぐっと減ってくる。何人だか分からない人々がいっぱいいる。私の隣はでっぷりと太った黒人で、彼はコーラを飲みつつ、時折イヤホンから流れる音楽に合わせて肩を揺らしていた。周囲にも中国人と思しき人はいるものの、ほとんどは黒人・白人で、これがエキゾッチックなる感覚かと少し興奮し、私はビールを飲む手をせわしなく動かし始めた。

香港まで4時間、香港からフィジーまで12時間の計16時間のフライトで私は日本からフィジーに降り立つ事ができた。飛行機の扉を開けた瞬間、流石南国、今まで体験したことのないような日差しが肌を刺してくる。CA来る、ビール頼む、寝る、CA来る、機内食食う、寝るっという空飛ぶブロイラー生活を送っていた私には、その日差しがいい目覚ましになるように思えた。これは後々感じたことだが、フィジーという国はそれほど「暑い」国ではない。クーラーなんて必要ないし、東京の方が何倍も「暑い」。確かに日差しは強烈で、日中はまともに目を開けることすらかなわないが、一旦日陰に入ると心地のよい風が年中無休で吹いていることを感じることが出来るし、夜なんて寝るには最適の気温になる。しかもこの気候がほぼ変わらないのだ。

フィジー、ナンディ空港を出ると、今回の留学を斡旋してくれた会社スタッフが待っていてくれた。日本人ではない、フィジー人だ。フィジーには元々のフィジー人と、植民地政策の一策として連れてこられたインド人が大半を占める。両者の関係はよく分からないが、経済観念の強いインド人と、それが薄いフィジー人では度々政策を巡って衝突を繰り返しているらしい。

そのフィジアンは流暢な日本語で学校の説明を簡単にし、タクシーで学生寮まで送ってくれた。今回私は金がないので、4人部屋の寮が今後二ヶ月の住処となる。

学生寮は学校の敷地内にある。しかし学校といってもそんなたいそうなところではない。まず二階建てだし、そこらへんにあるスーパーマーケットより何倍も小さいし汚い。さらに学生寮も二階建てで、部屋は上下合わせて30部屋しかなく、一階は男、二階は女というような作りになっている。要するに寮も学校も、何だか胡散臭い建物なのだ。

寮の玄関にある鍵はダイアル式で、番号は「1945」だった。流石英語の国、常々終戦年度を我々に認識させたいらしい。しかしこのダイアルもいい加減なもので、4519でも1945でも扉はバンバン開く。果たしてこの鍵はセキュリティ上ほんとに必要なのかどうか疑わしい気持ちになる。

何はともあれ、二ヶ月とはいっても、私にとって初めての海外長期生活はこの日始まったのであった。