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我々は一体全体大人になる過程で何を学んでいくのだろう。大人と子供は様々な事が違う。体力だって、大人の方がずっとある。確かに子供は元気一杯で意味もなく2時間くらい走り回っている程元気一杯な癖に、一日3時間睡眠を3日連続でこなすと体を壊してしまう。一方大人は僅かな階段の上り下りに息を切らす癖に、1日3時間睡眠の生活が3日続いたとしても、案外平気だ。確かに睡眠不足で電信柱を意味もなく蹴飛ばしたり、部長の後ろに聖母マリアがの幻覚が見え、Amajing Graceの幻聴が突如として流れたりはするが、取りあえずは何とかやっていける。しかし身体的な違いなどは大差ない。大人と子供の境界線を明確に引くもの、それは「知識」だ。

一部の脳みそツルリンと天才を除いて、九九で躓く大人はいないが、胎盤からの栄養補給を卒業し、最近になってようやくカツ丼で栄養素を補給出来るようになった羊水臭い小学校低学年の男の子は九九の七の段で躓く。勉強だけでなく、小学生は世の中の事も何も知らない。小学生は坂本竜馬というオヤジと裸同然で新宿高架下に転がってるオヤジのどちらが日本の将来に寄与したのかを知らない。近所に如何に綺麗なお姉さんいらっしゃっても、十中八九そのお姉さんはどこぞのお兄さんのビックカツをおしゃぶり昆布している事を知らない。笛を吹いたりベルトのバックルをブン回してヒーローに変身しなくても、ブラックニッカという酒をスーパーで買いこめば世界で一番強くなった気になれる事も知らなければ、私が本田望結ちゃんをどのような目線で見ているかは、小学生でなくてもあまり周囲には知って欲しくない。

とにもかくにも、小学生はグランドでとび跳ねたりプールで友人にヘッドロックかましたり、隣の女の子のスカートの皺に異常な興奮を覚えたりしながら、様々な「知識」を貯め込んで大人になっていく。そして、「知識」、いや「情報の感じ方」の偏りによって、人間の人格は様々なモノとなり、将来の像を形作る。世界にモノが満足に食えない子供がアホほどいる事に心を痛めた子供は、辞書と参考書を主食に世界で活躍する医師を志すかも知れない。ミニ四駆は何故電気で走るのかを日がな一日考えてしまう男の子は、日本を担うエンジニアへとなるかもしれない。隣の女の子のスカートの皺に異常な興奮を覚えた男の子は間違いなく、皆大好き、深夜の大きなお友達となっていく。

話は逸れたが、人間は大人になるにつれ、様々な「知識」「知識への感情」を体内にため込みつつ大人になっていくのだ。そして人はそれを「成長」という単語で片づけてしまうのだが、この「成長」という言葉は非常に厄介なのだ。確かに子供には「成長」は不可欠であるし、子供にとっては、九九を覚える事も、友人をぶん殴って拳に痛みを感じる事も成長だ。高校生ぐらいになって、可愛いなあ、ちょっとあの娘は凄くいいなあ、なんて感じていた子の財布の中にラブホテルの割引券が入っていたり、しかもそれはちょっと不良崩れで、それでいて自分より随分と学校の成績の良いイケメンと一戦交えた副産物である事を知り、そこらの電信柱に頭を打ち付けながら世の中の不条理と自らの無力さを知る事もまた、「成長」だ。

然し乍、この「成長」という言葉は大人になっても付きまとって来る。やれそこらのソープ狂いの部長が口を開いたと思えば「お前は全く新入社員の頃から成長していないな」などと言い始めるし、頭にきて転職サイトに登録しまくっていても、適性職種テストなんかで「あなたは自身の成長の為に何か努力をしていますか?」なんて言う質問を投げかけられる。頭にマショマロでも詰め込んでいるとしか思えないクソOLなんかもブログで「あの人にはやっぱり奥さんがいて、何だかもう冷めちゃった。もう男になんか振り回されない。成長したな、自分」などと体言止めを駆使して書いており、果たしてとても同じものを食って血を生生成している事が信じられないのだが、この「成長」というワードを使う。

確かに泡部長の言う成長は、本来の意味だ。そして、このクソOLの「成長」もまた、歪な形ではあるが成長に近い。しかし時として社会人の「成長」は体のイイ環境の押しつけでしかない場合が多いのだ。例えばの話だが、自身の先輩が、洗濯バサミの訪問販売というストイックな職業に就いたとしよう。洗濯バサミははそりゃあ私より社会にとっては必要なモノだ。しかしどう考えてもチャイムを鳴らして売りに行くものではない。恐らくその先輩は一般家庭に飛び込んで、馬鹿にされ、時に殴られたりしながら、土下座して洗濯バサミを売り続けるだろう。そして洗濯バサミが売れるかどうかはさておき、その先輩は「人の迷惑を考えず人の家に洗濯バサミを売りつけに行く」事に抵抗を感じなくなるだろう。また、とある先輩は、一日16時間休憩なしでぶっ続けに働く職場に就いたとしよう。給料はそこら辺のリーマンよりも低い。けれどその先輩はその仕事を2年間続ける事が出来てしまったとする。そうすると、その先輩は「16時間ぶっ続けで働く」という事に抵抗を感じなくなるはずだ。そしてこれらの例は、決して「成長」ではない。これらは成長ではなく「慣れ」だ。社会、会社という存在が自らに押し付けた環境に「慣れた」だけにしか過ぎない。これは「成長」ではなく「退化」に等しい。

このような例は、一般的な企業の中でもよくあることだと思う。そしてこれらの事象と似たような事を「成長」だと捉える人は、キチガイのようにそれらの無茶を人に強要するか、自らで何かを考える事を放棄してしまう。こうなっては、せっかく大人になる過程で自らが重ねてきた成長の年輪をブチ壊す事になってしまうのだ。

そんな事を考えながら転職サイトを転々とする日々な私ですが、どうやら職業診断テストで、どのサイトも満場一致で私の転職先は「引っ越し屋」だと頑なに断言するので、成長出来る職場!っとオドロオドロシイ文字で書かれた引っ越し屋の求人情報をなるべく何も考えないようにしながら流し読みしつつ、明日も元気に会社に行って参ります。