Grow

我々は一体全体大人になる過程で何を学んでいくのだろう。大人と子供は様々な事が違う。体力だって、大人の方がずっとある。確かに子供は元気一杯で意味もなく2時間くらい走り回っている程元気一杯な癖に、一日3時間睡眠を3日連続でこなすと体を壊してしまう。一方大人は僅かな階段の上り下りに息を切らす癖に、1日3時間睡眠の生活が3日続いたとしても、案外平気だ。確かに睡眠不足で電信柱を意味もなく蹴飛ばしたり、部長の後ろに聖母マリアがの幻覚が見え、Amajing Graceの幻聴が突如として流れたりはするが、取りあえずは何とかやっていける。しかし身体的な違いなどは大差ない。大人と子供の境界線を明確に引くもの、それは「知識」だ。

一部の脳みそツルリンと天才を除いて、九九で躓く大人はいないが、胎盤からの栄養補給を卒業し、最近になってようやくカツ丼で栄養素を補給出来るようになった羊水臭い小学校低学年の男の子は九九の七の段で躓く。勉強だけでなく、小学生は世の中の事も何も知らない。小学生は坂本竜馬というオヤジと裸同然で新宿高架下に転がってるオヤジのどちらが日本の将来に寄与したのかを知らない。近所に如何に綺麗なお姉さんいらっしゃっても、十中八九そのお姉さんはどこぞのお兄さんのビックカツをおしゃぶり昆布している事を知らない。笛を吹いたりベルトのバックルをブン回してヒーローに変身しなくても、ブラックニッカという酒をスーパーで買いこめば世界で一番強くなった気になれる事も知らなければ、私が本田望結ちゃんをどのような目線で見ているかは、小学生でなくてもあまり周囲には知って欲しくない。

とにもかくにも、小学生はグランドでとび跳ねたりプールで友人にヘッドロックかましたり、隣の女の子のスカートの皺に異常な興奮を覚えたりしながら、様々な「知識」を貯め込んで大人になっていく。そして、「知識」、いや「情報の感じ方」の偏りによって、人間の人格は様々なモノとなり、将来の像を形作る。世界にモノが満足に食えない子供がアホほどいる事に心を痛めた子供は、辞書と参考書を主食に世界で活躍する医師を志すかも知れない。ミニ四駆は何故電気で走るのかを日がな一日考えてしまう男の子は、日本を担うエンジニアへとなるかもしれない。隣の女の子のスカートの皺に異常な興奮を覚えた男の子は間違いなく、皆大好き、深夜の大きなお友達となっていく。

話は逸れたが、人間は大人になるにつれ、様々な「知識」「知識への感情」を体内にため込みつつ大人になっていくのだ。そして人はそれを「成長」という単語で片づけてしまうのだが、この「成長」という言葉は非常に厄介なのだ。確かに子供には「成長」は不可欠であるし、子供にとっては、九九を覚える事も、友人をぶん殴って拳に痛みを感じる事も成長だ。高校生ぐらいになって、可愛いなあ、ちょっとあの娘は凄くいいなあ、なんて感じていた子の財布の中にラブホテルの割引券が入っていたり、しかもそれはちょっと不良崩れで、それでいて自分より随分と学校の成績の良いイケメンと一戦交えた副産物である事を知り、そこらの電信柱に頭を打ち付けながら世の中の不条理と自らの無力さを知る事もまた、「成長」だ。

然し乍、この「成長」という言葉は大人になっても付きまとって来る。やれそこらのソープ狂いの部長が口を開いたと思えば「お前は全く新入社員の頃から成長していないな」などと言い始めるし、頭にきて転職サイトに登録しまくっていても、適性職種テストなんかで「あなたは自身の成長の為に何か努力をしていますか?」なんて言う質問を投げかけられる。頭にマショマロでも詰め込んでいるとしか思えないクソOLなんかもブログで「あの人にはやっぱり奥さんがいて、何だかもう冷めちゃった。もう男になんか振り回されない。成長したな、自分」などと体言止めを駆使して書いており、果たしてとても同じものを食って血を生生成している事が信じられないのだが、この「成長」というワードを使う。

確かに泡部長の言う成長は、本来の意味だ。そして、このクソOLの「成長」もまた、歪な形ではあるが成長に近い。しかし時として社会人の「成長」は体のイイ環境の押しつけでしかない場合が多いのだ。例えばの話だが、自身の先輩が、洗濯バサミの訪問販売というストイックな職業に就いたとしよう。洗濯バサミははそりゃあ私より社会にとっては必要なモノだ。しかしどう考えてもチャイムを鳴らして売りに行くものではない。恐らくその先輩は一般家庭に飛び込んで、馬鹿にされ、時に殴られたりしながら、土下座して洗濯バサミを売り続けるだろう。そして洗濯バサミが売れるかどうかはさておき、その先輩は「人の迷惑を考えず人の家に洗濯バサミを売りつけに行く」事に抵抗を感じなくなるだろう。また、とある先輩は、一日16時間休憩なしでぶっ続けに働く職場に就いたとしよう。給料はそこら辺のリーマンよりも低い。けれどその先輩はその仕事を2年間続ける事が出来てしまったとする。そうすると、その先輩は「16時間ぶっ続けで働く」という事に抵抗を感じなくなるはずだ。そしてこれらの例は、決して「成長」ではない。これらは成長ではなく「慣れ」だ。社会、会社という存在が自らに押し付けた環境に「慣れた」だけにしか過ぎない。これは「成長」ではなく「退化」に等しい。

このような例は、一般的な企業の中でもよくあることだと思う。そしてこれらの事象と似たような事を「成長」だと捉える人は、キチガイのようにそれらの無茶を人に強要するか、自らで何かを考える事を放棄してしまう。こうなっては、せっかく大人になる過程で自らが重ねてきた成長の年輪をブチ壊す事になってしまうのだ。

そんな事を考えながら転職サイトを転々とする日々な私ですが、どうやら職業診断テストで、どのサイトも満場一致で私の転職先は「引っ越し屋」だと頑なに断言するので、成長出来る職場!っとオドロオドロシイ文字で書かれた引っ越し屋の求人情報をなるべく何も考えないようにしながら流し読みしつつ、明日も元気に会社に行って参ります。

Boys be angry

「今から俺が見てる前でキレろ!お前は甘すぎるんだ!」

震える手で電話を持つ私の真正面に先輩は立ち、こう叫んだ。上司からの叱責、終わりの見えない残業の日々、近所の定食屋の血も涙もないから揚げ定食50円値上げ等による過度のストレスで、先輩の目は赤く充血していた。アルコールが切れたのか加藤イーグル大兄の真似をしているのか定かではないが、あまつさえ先輩の手はブルブルと左右に震えている。どういう訳か微妙に足まで震えている。充血した目に震える四股。その様相はまさに手負いの熊だ。腹を空かせ、傷だらけの体で、己に向けられた猟銃に精神を研ぎ澄ませている手負いの熊だ。

そんな先輩を虚ろな目で見る私の脳裏に、走馬灯のように入社当時の、あの楽しかった研修期間が走り抜ける。

「当社は人を第一に考えている会社です。人材こそわが社の財産です!」脳みそに電気を流す特殊な種類の宗教でもやってんじゃねえかと疑いたくなるくらい見開かれた目をした人事は、確かにこう言ったのだ。希望に目を輝かせ、日本経済を背負ってたつのだと燃えていた同期はその言葉に歓喜した。名刺の渡し方、社外の人への最低限のマナー。簿記研修に英文メール研修。会社は我々にジャブジャブと教育を施した。中々どうして、「僕はチキンカツ以外は結構どうでもいいから、基本、チキンカツが食えていれば目下のところ幸せです」などと、親不孝の極みのような事を考えていた私のようなものでもチキンと、いやキチンと研修を受けさせてくれたのだ。さも、太陽は東から昇るんですよ!っと言うのと変わらないテンションで「布団に入ってたら留年してたんですよ!」などと面接で喋り、面接にヌケヌケと遅刻したり筆記試験を白紙で出したりと、この会社に入るために辛く厳しい試練の就職活動をくぐりぬけた成果とはいえ、イイ会社に入ったじゃない!っと私自身も当時は喜んでいた。

しかし2週間の研修が終わるや否や、私の会社への感じ方は一変した。今でも配属当時の事を鮮明に思いだせる。

何が面白いのか、何人もの太ったオッサンどもがギャハギャハと狂ったように笑いながら電話で客と喋り、電話を切った後は目を吊り上げ、唸り声をあげながらパソコンのキーボードをひっぱたく。延々とそれを繰り返しているオッサンどもの中に放り込まれ、意味の分からない書類を次々と渡される。新人は電話を取るのが仕事だからというものだから、恐る恐る電話を取って、先輩社員に取り次ぐと「声が小せえんだよ!他の部署からクレームが来るぐらいウルサイ声で電話せんかい!」っと、それまで一体どういう会話を客としていたのか知らないが「筋肉マンじゃあるまいし!」っと、訳の分からない事を客と喋っていた上司に、私の遥か彼方の席から怒鳴られる。社内の先輩からの電話を取っても悲惨な末路。「お前誰だよ!ってか声が小せえんだよ!」っと、アロマ企画っていうイカれたAV会社が作った、女をひたすらビンタするっていうAVを笑いながら見そうな声をした、ヤクザな中堅社員に罵声を浴びさせられる日々。その後電話で質問をするだけで意味不明なシャウトをしていたその中堅社員が、大学を出ている事を知って私は心底安堵した程だ。それくらいその中堅社員は狂っていた。

そんな日々を一カ月くらい続けると、今度は意味の分からない量の電話をかけさせられ、これまたブチ切れながら片言の日本語を喋る韓国人と中国人に、意味も分からず「すみませんでした!」っと謝罪を繰り返す。

そんな、一体何がどうなっているのか分からない日々の一コマが、冒頭の場面である。

確かに私が電話をかけようとしている、零細企業の社長のミスにより、私の会社は行き詰っていた。ひっきりなしにそのミスを責める電話が私の所にかかってきて、私じゃ飽き足らず、手負いの熊と化した先輩の所にまで、クレーム電話の魔の手は差しかかっていたのだ。しかしながら、電話口で私がミスをやってのけた零細企業の社長にブチ切れたところで、問題は解決するのかは甚だ疑問だ。双方で妥協点を見出し、解決策をひねり出し、クレームを入れてくる奴らに策を提示するのが、最善の策であると、その時の私は考えていたのだ。

けれど状況はそんな事を言ってられる状況ではない。何せ、目の前には手負いの熊がいて、私はすぐさま電話をかけなければならないのだ。妥協点を〜何かやっていたら、私の身がどうなるのか、考えただけでも恐ろしい。

キレる。俺はキレるのだ。私より2周りくらい年上のこの国籍も分からない片言オヤジにキレるのだ。私は先輩同様、熊を襲う蛮勇民族、熊襲の血を引く私は、手負いの熊と化した。

結果として、電話口での私のシャウトは功を奏した。信じられれないかもしれないが、少なくとも私の会社が抱えていた問題は何とかなってしまった。零細企業の社長が一体どんな手を使ったのか定かではないし、零細企業の社長はその後電話をかける度に「今愛人といるので電話しないでもらえませんか」と気力のない声で呟くようになってしまったが、取りあえず問題は解決してしまったのだ。

「キレる」「怒る」というのは、人が成長する過程で抑圧され、精神の奥の方に追い込まれてしまう感情である。やはりどんな人でもお互いに笑いながら行動を共にしたいし、出来るならば問題ごとは皆ごめんだ。しかし、感情というのは、情報、自らの発言に、様々な価値を付する調味料的な役割を担う事もまた事実である。企業というのはそれぞれが明確な「何をしたい」という指針を持ち合わせ、社員は会社と同じようなマインドを持って仕事に当たる。この「何をしたい」を企業同士がマッチさせた時に初めて双方に利益が発生し、会社というのはそれぞれが成り立っている。そして法人営業というのはその調整役に立つ事が圧倒的に多く、だからこそ、生産者と消費者の間に、無数の企業が存在しえる。ただ、往々にして企業同士の「何をしたい」は複雑に交差し、どちらかが折れ、どちらかの意見が通る、などという事態が発生する。この時に最も重要なのが「感情」という調味料だ。確かに会社同士の上下関係みたいなのは存在するが、所詮は連絡を取り合っているのは会社の末端社員。少々の出来ごとならば上は動かず、担当者同士でケリを付けてしまう。よってその担当者同士が双方の言い分を如何にして通すのかが非常に重要で、だからこそ時に激怒し、時に哀願し、それぞれの会社の「何をしたい」を何とか通そうと必死になる。淡々と「〜にしてくれないですかねえ」などと言っても、中々聞いてもらえない。1回の電話より100回の電話、1回の面談より100回の面談で、会社が自らに課した「何をしたい」を感情たっぷりに話す中で、物事は進んでいく。機械でなく、人と人とが物事を決定する現代の社会では、このプロセスは中々無くならないだろう。

そんなこんなんで、チキンカツ至上主義の私のような甘ちゃんな私も「キレる」事の重要性を認識し、色んな電話で意味もなく怒ったりしているのですが、最近私の回した書類が親会社で一カ月放置され、それに気付かない私もどうかと思うだが、そんな事はお構いなしに親会社に怒りのお電話。「おたく給料もらって何してるの?」と皮肉たっぷりに言った所、どうもそれが結構偉い人だったらしく、電話の二日後に「君がくまそ君か〜元気が良くていいねえ〜」と、怒気に満ちた顔でまさかの私が勤める子会社に乗り込んできやがりました。

近い将来クビになるかも知れません。

多様性と専門性

携帯電話の普及とその進化というのは凄まじい。駅を通り過ぎる度に「もう無理だ!」「まだいける!」等の罵声と悲鳴と若干のすすり泣きを携え、人肉風呂と化した通勤電車なんぞに乗って悲鳴を上げる日々を毎朝送っていると分かるのだが、老若男女問わずスマホや携帯をこれでもかといじくりまわしている。仕事をしていても携帯電話は手放せない。特に外回りをしている時なども、会社支給ブラックベリーはうなりを上げる。メールのチェックには欠かせないし、客先の住所を調べナビさせたりエロス動画を息抜きに閲覧したりと大活躍である。

この携帯の普及に一役買っているのが「デバイスの多様性」だ。私の持つガラパゴス携帯と呼ばれる勇ましい老兵でさえ、アラーム、電卓、スケジュール管理と何でも出来る。しかもインターネットに繋がっているものだから、その多様な使い道はやりたい放題の始末に負えない殿様カエルである。スマホなんかはもっと凄く、様々なアプリが日々開発され、多様性は高性能のデバイスにソフトウェアの開発が加わって、日々機能が強化されていっている。近い将来人は会社に行かなくても、家でヌボっと起きてスマホをいじくり回し、含み笑いを5分かました後に再び布団にもぐって手取り15万也、などの会社生活を送るようになるのかもしれない。

一般的に多様化する事は「進化」だ。人間だって今は多様なスキルを持ち合わせた人材が重宝される時代だ。私が従事している営業職なんていうのは、基本的に昔は根性と精神力と性欲で何とかなったのかもしれないが、現代の営業職には、パソコンスキル、語学、話術など、様々なモノが求められる。これは一概に、多様性が進んだ、すなわち進化した社会に、会社が適用しようとしようとした結果だと思われる。

然しながら、多様性ばかりが進化ではない。専門性もまた、進化の結果なのだ。

それを感じたのが、最近行ったドラックストアだ。最近私のウナギのお遊戯場所みたいに狭い部屋が、期せずしてとんでもない臭気を発している。それはもう、ゾウでも飼ってんじゃねえかと自分で疑いたくなるくらいの獣臭で満ち満ちている。そしてスーツなんぞにその匂いが移るもんだから、社内の事務職の娘っ子に「くまそさんは昨日家に帰らなかったの?」などと、遠まわしに「おまえ、くさい、ヒ素、飲め」みたいな事を言われてしまった。っでもって件のドラックストアに足を運んだ訳なのだけど、ドラックストアというのは凄まじい。あれは単にコンドームを買って遊んでいる場所じゃない。まさに専門性のデパートだ。

その日私の買い求めようとしたのは、部屋を綺麗にする洗剤と、部屋の匂いを誤魔化す芳香剤だった。財布には5千円入れていたのだが、千円以下で全てが揃うだろうとタカをくくっていた。しかしそれがそもそもの間違いだった。まず洗剤だけど、これは凄い。トイレ用、トイレの排水溝用、台所用、台所の排水溝用、風呂用、風呂の排水溝用、カーペット用、畳用、フローリング用と、事細かに用途が分けられ、全ての洗剤を有していない私は、一体自分がどれを買えばいいのか全く分からなかった。まあ「バス風呂台所をピカピカに出来て、おまけに歯も磨ける洗剤が欲しい」などという甘ったれた考えを持ってドラックストアに突っ込んだ事がそもそもの間違いなのだが、それにしてもあまりに様々な分野の掃除に特化した洗剤があり過ぎ、何を買ったら正解なのかが全く分からなかった。しかも芳香剤も隅に置けない。トイレ用、玄関用、台所用、リビング用と、これまたジャンルに応じて芳香剤が発売されており、更に「森林の香り」などと衝撃的な、全く予想がつかない香りを売りにしている芳香剤が各ジャンル1つはあるので、完全に思考がフリーズしてしまった。結局思いつくままに買い物を重ねた結果、4000円くらいを使ってしまったのだ。自分の部屋を綺麗にするために、私は何杯の牛分の金を使ってしまったのだろう。考えるのが恐ろしい。

恐らく明治時代の日本など、何かを綺麗にする!っと言ったら水で洗い流すくらいしか選択肢がなかった訳で、初めて発売された洗剤も、石鹸みたいなものだったと思われる。それが今や様々な用途に特化した、専門性を突き詰めた洗剤がドラックストアにところ狭しと並べられているのだ。そしてこれもまた進化なのだ。

要するに進化というのは、専門性と多様性、このどちらかを突き詰める事にあるのだ。これは人間にも当てはまる事で、自分を高めようとするならば、何かに特化するか、色々齧りまくってみるかしかないのだと思う。

そんな事を考えながら、社会人二年目で二社目を迎え、来年も会社が変わる事が確実視され履歴書だけが傷だらけに退化している私は、汎用性が最も高い調味料であるポン酢を、多様な食材にぶっかけながら、金麦を専門に、夜の晩酌を謳歌しております。

底辺ずし

中学校の頃、死ぬほど面倒くさいテストを作る、如何にも援助交際で女子高生を叱りつけ、でもやる事はしっかりやって、事後に100円単位の交渉を吹っかけそうな、ショーもないチクワ顔の教師がいた。当時、いやこれは今もだが、中学時代の私はお世辞にも顔がイイとはいえず、流行りの曲も聞かず、ファッションも野良仕事をするオッサンと大差なし。おまけに移動教室の際、自分とは違う他人の机に延々と自作の官能小説をしたためると言う、所謂気持ち悪い生徒だったので、これで頭まで悪かったら親は私をどう思うだろう、それだけは考えたくない!っとばかりに、結構真面目に勉学に勤しんでいた。よってチクワ先生の作る難解なテストには、努力が正当に報われないと、かなり腹を立てていた記憶がある。そんなある日の中間テスト、いつものようにウンコ先生の作るウンコテストを前にブリブリ思案する私たち生徒に、かの先生は「お前らは難しいテストだとガッカリするんだろうが、難しいテストほど、勉強してる奴と勉強していない奴の差がなくなるんだぞ。だからテストが難しかったら喜ぶべきだ」っと死ぬほど腹立たしい顔で言い放った。当時はクソの戯言とばかりに鉛筆をテストに叩きつけた私だったが、今考えるとこのウンコ教師の言う事はあながち間違いではない。

例を上げると、「Hi!Tom!This is a pen!」「No.I am hard fucker」などの簡単な英語を勉強している中学生1年生にセンター試験の英語の問題を解かせても、実力の差はそれほどでないだろう。それは彼らが悪いのではなく、習っていないのだから出来なくて当たり前で、カンや推察力なんかで、ブリブリとテスト範囲の勉強していた組より、根は結構頭がいいくせに、テスト期間中部活がないのをイイことに、女子生徒とイイことをしていた生徒の方がテストの点数で上回ってしまう事もありうるからだ。けれど、簡単なテストなら話は別である。ブリブリ勉強していた生徒は、Tomがハードファッカーである事を知っているし「Who is hard fucker?」という問いにも「Tom」と元気よく答える事が出来る。しかし不純異性交遊に勤しんでいた生徒は、教科書に何回もTomはハードファッカーだと書いているのに「Who is hard fucker?」の問いに「Yes. I am sex king」とか「My dad is」とか答えてしまう。そしてその結果は如実にテスト結果に現れてしまうのだ。

しかしこの現象はこと私たちの日常における「食事の価格と、人々の貧富」には当てはまらない。分かりやすく言うと、安価な食べ物はさして金持ちでも貧乏人でも食うモノは一緒だが、高級な食べ物ほど、人の貧富の差は如実に表れてしまうのだ。

それを実感してしまったのが、私の故郷SEIYUである。

SEIYUは夜の10時くらいになると、感情の全くない目をした夜勤バイトのお兄さんが、お総菜にペタペタと半額のシールを張っていく。タダでさえ安いSEIYUのお総菜が半額とあって、目をギラギラさせた飢えた深夜のハイエナどもが、死んだ目をしたお兄さんの後ろに列を成し、お気に入りの総菜に半額シールが貼られるや否やカゴに総菜を放り込み、勝ち誇った顔でレジへと並ぶのだ。

I am アルコール中毒な私は毎晩家で、何が楽しいのかビールやウイスキーをガブガブ飲む。例え飲み会があった日でも、飲み直しとばかりに、ガブガブと酒を飲む。よってこれら半額総菜は非常にコストパフォーマンスの高いつまみになるので、夕食代わりに半額唐揚げとか半額チクワ揚げとかを頬張り、ガブガブと酒を飲むのだが、この半額セールの目玉商品と言えるのが「寿司」である。

寿司と言えば高級な食べ物の代名詞。私が働く場所にも寿司屋が多く並んでいるが、そのどれもが信じられないほど高く、一巻で、ともすれば数千円なんてものざらだ。そんな寿司もSEIYUの必殺半額セールにかかれば一気に庶民の食べ物へ。定価で600円くらいのの、マグロやシラスがタップリ入った寿司が何と300円。これなら日給で生計を立てるお父さんにも手が出る金額だ。ビールでも買えば、家で気軽に金持ちの気分が味わえる。

しかしハッキリと言えるのは、これらの寿司は絶対に一巻数千円の寿司を食っているような連中は食わない。牛丼なんかの安価な食事は、恐らくどの階級層でも食ってるだろうし、同じく安価なコンビニおにぎり、カップラーメンなんかも、金持ち貧乏関係なく、同じものを食っているはずだ。しかしこの半額寿司は絶対に金持ちは食わない。何よりこれら寿司は、賞味期限がギリギリだからか何なのかは知らないが、マグロなんて木工ボンドのような味がするし、サーモンなんてコメの上にラードを布いて食べているような味がする。でも、頭の中では、高級な寿司!っというイメージがあるので、実際に美味しくなくても、寿司を食っているという満足感を得る事が出来る。けれどこんなものを、ある程度収入のある人間は、衛生面も考えて、食べるはずがないのだ。

よって、この「寿司」の半額セールに群がる奴らは、非常に身なりが酷い。結婚し子供もいるのかもしれないが、いい年して訳の分からない色に髪を染めた、金と時間と義理人情にルーズそうな夫婦。明らかに安月給風の、逆に失礼にあたるんじゃないかと思うほど、ヨレヨレになったスーツを着たサラリーマン。職業が何なのか知らないが、だらしのない腹をでっぷりと前に出し、焦点の定まっていない目をしているオッサン。これらの人々が死んだ魚の目をしたバイトのお兄さんの後ろに並び、半額シールが貼られたと同時に、すばやくカゴに寿司を突っ込み、次なる獲物を待つ。

こんな列の中に、以前は私も入っていたのだけれど、ふと周りを見渡し、客観的に自分を見てみると、何だか情けなくなり、最近はどうもこの半額寿司を食べる気にならないでいる。

金は持っていて損はないと思うし、貧乏よりも金がある方が幸せに決まっている。金で買えないモノなんてこの世にはほとんどないし、何より金を稼ぐ事は自らに価値を与える行為に等しく、結構楽しかったりする。でもやっぱり巡り合わせによって、どうしても平均よりも金を稼げない人間というのは沢山いる。そんな人がいなければ、上層部は潤わない。

けれども忘れてはならないのは、いくら高級な寿司が食えないとはいえ、決して腐った寿司を食えばいいという問題ではないのだ。金がなければ、牛丼をかき込み、金が無くても酒が飲みたければブラックニッカを呷ればいい。自ら中途半端な領域に飛び込み、心と態度まで腐らせる必要はないのだ。寿司なんか食わなくても、人はキチンと生きていけるし、半額寿司を手にした時点で、一度きりしかない自分の人生を、具体的にも抽象的にも貧層にするという事を自覚すべきである。

そんな事を考える今日この頃。最近は深夜のスーパーに行って、お目当ての「半額サーモンのシソ巻きフライ」に、半額シールが貼られないかと、今か今かと総菜コーナーでヤキモキしています。

グローバル人材

私が働いている会社は、基本的には海外との取引がメインの会社なので、少なからずというか、結構英語を使うんですね。なので、英語が出来ない私なんかは、そりゃあもう新入社員の頃なんかは電話に出るのをビビりまくっていた訳なんですよ。だって受話器を取ったら英語が垂れ流れてくるんだから、そりゃあ怖い。まあ、それでなくとも非常に荒っぽい業界ですので、新入社員は電話を取るのが仕事と言われるモノだから配属3日目で恐る恐る電話取ったら、挨拶の「あ」の字もなく、更に受話器越しの相手を確認しようともせず「今から乗せるけどいいのか!いいいんだな!乗せるぞ!」とか絶対私宛ではない、意味不明な事を取引先が叫んでいるなんて事もあり、英語以外にも電話を取るのは勇気がいるのだけれど、とにかくまあ英語での電話も結構かかってくる訳なんですよ。っで余談だけど「乗せちゃってください」とか先の電話に応えて、後日「お前乗せちゃったのか!乗せちゃマズイだろ!」とか先輩社員に怒られたりするんですよ。何を乗せたのか知らないけど。

っで、英語の電話の問題なんですけど、どう対処すればいいのか分かんないじゃないですか。しかも、先輩社員に教えを請うても「英語?英語なんてカマせばいいんだよ!」とか言われるし、とにかく自分で何とかするしかないんですね。英語って絶対カマすもんじゃないですしね。

しかしまあ、配属間もない頃はこちらから電話をかけると言うより、ケタタマシクなる電話をこちらから取る事の方が圧倒的に多いので、運悪く相手が外人でも「プリーズホールドオン」とか言ってればイイんで特に問題はなかったんですよ。けれど配属されて数カ月たつと、今度はこちらも用があって電話をかける事が多くなったんですが、とりあえずは相手は日本人、っという事ばかりだったんですね。

しかし運命の時は突然やってきます。隣で先輩がケタタマシク何者かに怒鳴っており、ととにかくタダならない事態だってことが予想された訳ですが、電話を受話器に打ちつけるようにして電話を叩き切った先輩は、荒い息をつきながら私に「今からこの外人に金は払わねえ!って怒鳴りつけろ!」とか凄まじい眼光でいう訳なんですよ。っで事態を全く飲み込めない私がオロオロしていると、「これがマニュアルだ」とかいって一枚の紙切れを渡して来るんですが、その紙には「英語で質問が来たらTrust Meと叫ぶ事」とか、あまり役に立つとは思えない事ばかりが書かれており、私としても困り果ててしまう訳なんですよ。

っで色々シチュエーションを考え、少ない時間でこれとこれを言おう!っと自分で紙に書いて電話をしたんですが、「Hi! Kumaso san!
How are you?」っと聞かれテンパった私はそのまま受話器を置いてしまい、事態は振り出しに戻るどころか悪化し、まあしかし詳細は覚えてないけれど、何とか事態は収束を迎え、ヒア汗だらだらで家路についた訳なんですね。

その後も色々と英語で電話をする事もあったんですが、私が最初に担当していた仕事が「金を払え!」と「金は払わん!」をひたすら怒鳴り続ける仕事という事もあって「I can not pay! You have responsibility!」「You should pay! Within today!」を繰り返すばかりで、未だに英語のスキルは全く伸びていないのですが、とりあえずまあ、英語恐怖症だけは克服出来た事は出来たんですよ。

しかしまあ、やっぱり「You should pay!」だけでは限界があり、キチンと英語を学ぼうと、少なくともTOEICだけは定期的に受けるように心がけています。

これからの世の中、英語が出来て不利になる事なんてまずないと思いますし、英語が少し出来るという事だけでも、見える世界は広がってくると思います。最近はエロス動画も鬼畜米英に乗っ取られ、盗撮モノの動画が見たい!っと勢い勇んでXなんとかヴぃでおの検索欄に「盗撮 露天」とか「盗撮 芦田愛菜 おゆうぎ大会」とか日本語でブチ込もうなら赤っ恥です。そこはキチンと「hiddencam Japanese」と打たなければならないのです。

なんて事を言いつつも、最近はあまりに私の英語が上達しないので、国内営業ばかりさせられております。未だに英語は上手く喋れませんが、「乗せるけどいいの?」っといきなり言われても、「それは明日乗せてくれ」とか言えるようになってきています。これが成長なのか何なのか、私には分かりません。

特盛りハンバーグ弁当

お久しぶりです。底辺リーマンのくまそです。

底辺とはいえど正社員となり、社会的な信用をある程度勝ち得た私。残高が給料日20日前でも豪快に酒が飲める魔法のプラチック、クレジットカードの虜となるのは時間の問題でした。そしてもって月のクレジットカード請求額が22万という、マリーアントアネットもパンツ一枚で逃げ出すような豪遊っプリをエンジョイしていたんですが、勿論そんな私の手取りを大きく超える額を払える訳もなく、辛い借金生活に陥ってしまいました。しかしお財布はあいりん地区ですが、心は西海岸な私。急激に進行した虫歯からくる激痛を、ブラックニッカのがぶ飲みで何とか抑えつけ、荒い息をつき明日はどの飲み会に財布を持たずに突入すべきか思案を巡らす毎日でした。

そんな身も心も底辺な輩の日々の強い味方は、何と言ってもSEIYU。私が住む、東京のハズレを外角低めのカーブで抉ったぶっちゃけ千葉!ってな生活臭でむせ返る地域では、SEIYUが二十四時間笑って巨大なアジフライを法外に安い値段で販売しており、借金生活に一筋の光!っとばかりに、夢遊病者のような眼をしながら、ビール片手に好物のアジフライを頬張ったり出来る訳なんですよ。

SEIYUが近くにある人は分かると思いますが、SEIYUは確かに安い。しかも、病気としか思えないファッションセンスをした太ったおばさんや、宗教的な顔立ちをしたオッサン、お腹に5匹くらいサナダムシを飼ってそうな不潔な子供等々が、満面の笑みで「バスプラ!」などと叫んでおり、買い物客を馬鹿にしているのか何なのか知りませんが、とにかく安い!を店全体がモーアピールしてくるのですよ。

そんなSEIYUの英知を結集させた集大成ともいえる商品が「特盛りハンバーグ弁当\298」

この商品は、超巨大なハンバーグをズシンと弁当の上座に据え、その周りには大量のご飯が敷き詰められている大ボリューム弁当。それが何と298円。セブンイレブンで1時間バイトするともれなく3食この弁当が食えてしまうと言う神のような弁当で、ぶっちゃけ食べない奴は馬鹿っていうか、食べる奴が馬鹿っていうか、作った奴は、確実に愛すべき貧乏大食漢の酸いも甘いも知り尽くした御仁であろう事が有力視される弁当なのです。

よって、カード会社から狂ったようにかかってくる電話を一切無視し、未納に次ぐ未納でガスと水道が止められ、何故か電気とネットのみのインフラ整備が整った電脳部屋で、モリモリとこの弁当を食らっては、我が物顔で近所のファミリーマートにてモリモリとトイレをカマす(水道が止められているため)日々を続けていたのですよ。因みにこれでも税金をモリモリ払っている社会人なんですけどね。

そんなロッケンロールな日々の中、私のミスで見事に1000万円以上の損を出してしまい、ソープ狂いの部長に人間辞めようかなあと思うほどシバかれた後、私はしょんぼりとこの弁当を、電気すら止まり、でも何故かネットだけ通っているという意味不明な部屋でモリモリ食していた訳なんですね。

その時ふと思った訳です。私はこの特盛りハンバーグ弁当のような人間なのではないかと。特別な技能を持たない代わり、賃金が安くてもモリモリと残業代0で深夜まで働く。そんな環境下でも何の文句も言わない私のような人間こそ、いくらでも低コストで質より量のパフォーマンスを垂れ流せる特盛りハンバーグ弁当のような人間なのではないかと。この日本には働きたくても働けない人なんて山ほどいる。だから骨身を削っても、モリモリ量だけのサービスを提供し続けられる、いくらでも代替可能な人材と、量だけが取り柄の弁当。合成肉としなびた唐揚げ。罵声と過労を積み重ねても壊れない体と、反旗を翻せないメンタル。何だかそう考えると妙にこの弁当が愛らしく思え、せわしなく動かしていた箸が止まってしまいました。


まあ今は財政状況も落ち着き、安月給から何とか金を捻出しつつ貯金なども始めております。仕事でも少しづつ利益が出せるようになり、局所的にではあるけれど、とある凄まじくニッチな業種の中では信頼を構築出来るようにはなりました。仕事の楽しさも何となくではあるけれど分かり、とりあえずは何とかなってはいますが、夜遅くSEIYUに行ってはこの特盛りハンバーグ弁当を手に取り、驕ってはいけないぞと自らに喝を入れたりしております。


そんなこんなで少しづつではありますが、精神的、時間的な余裕が出てきたので、ブログの更新なんぞも不定期にやっていこうと思います。ただ、こんなブログを未だ見ている人がいるのか疑問ではありますが一応御断りを入れておきますが、時間的な問題がありますので、文章は短めになると思います。

ではでは!

曇りなき眼

ジブリ作品は左翼映画だ!」

いつだったか大学1、2年の頃の話です。その日僕らは退屈を紛らわすように、仲間内で他愛もない話をしていたんですよ。何の事はない、普通で平和な光景です。しかし映画好きの奴がジブリ作品の話を始めるや否や、友人の山本君は上記の一文を叫びだし、平和な光景をバリバリとブチ壊すではないですか。山本君は当時とある政治組織に入っており、ヤクザな事務所にも通い詰め、講演会を開いたりと本格的かつ積極的な右翼活動をしていました。彼はその後に右翼思想を捨て、日本ピンサロ研究会という巨大風俗組織の一員として、風俗業界でもって頭角を現す事になるのですが、上記の発言は、この頃彼は思想の転向のきっかけとなる「池袋・南の島」という伝説的なピンサロに出会う前の事だった。彼の人生に南国の風が優しく語りかける前の話だった。

世の中の人のほとんどはスタジオジブリを知っていると思います。可愛らしいアニメーションや独特のファンタジーな世界観から、女性を中心に人気があるように思われる節もありますが、そんな事はありません。高校時代、受験勉強でノイローゼ気味になっていた友人の小松君はげっそりとした顔で「くまそ君…昨日、もののけ姫を徹夜で3回見てて気づいたんだけど、アシタカがヤックル!って叫ぶ回数。あれは見る度に変わるんだ…」なんて言ってましたし、男の子にも根強い人気があるんだと思います。

というか日本人であるならばジブリ作品を見ていない人はかなり少ないのではないでしょうか。日本人でジブリ作品を見た事が無いってのは、ピンサロ狂いを豪語しておきながらピンサロの聖地・大塚に行った事が無いのと同じで、日本人ならハポンモグリ、ピンサロマンならピンサロモグリ、略して色々いじって「ピグモン」と裏で陰口を叩かれる事になるやもしれません。

かくいう私も素股オシャブリ、じゃなかった、スタジオジブリの作品は大好きです。特に好きなのはやはり不朽の名作と名高い「もののけ姫」ですね。


さて、少し話が飛びましたが、件の山本君の発言に話を戻しましょう。


ジブリ作品は左翼映画だ!」


そう叫ぶ山本君は自論を展開し始めます。何でも彼は、そのあまりに初々しい恋愛描写で青年の自殺率底上げに貢献していると噂の「耳をすませば」が大好きだったらしいのです。そんなセンチメンタルまっしぐらの映画で感動できる彼がその後、どうして吉祥寺の伝説的なピンサロ「レモンクラブ」にご執心になるのか、そこのところの精神構造はイマイチ分からないのだけど、まあアレだよね、人間って本当に逞しいからね。彼は今実家がある埼玉県に、吉祥寺からピンサロで疲れた体を引きづって家路につく途中カントリーロード聞いても、最早何も思わないんでしょうね。

話がそれました。彼はジブリ映画における自らの自論を展開し始めたのです。「耳をすませば」が大好きな彼。それが講じて、「耳をすませば」のロケ地を一人で巡っていたそうな。そしてその中で雫の父が勤める図書館とされる場所に行った時、彼ははたと気づいたらしいのです。


耳をすませばは左翼映画だった…」っと。


何でもその図書館の中に入ると図書館の掲示板に民青(共産党の学生組織のようなもの)がデカデカと貼りつけられ、そのポスターを見た直後、彼はその図書館が左翼図書館であった事を確信したと言うではないですか。しかも勝手に雫の父を「学生運動のやり過ぎで就職出来なくなった悲しき活動家」と決めつけ、政治セクトが哀れに思い、セクトが運営している図書館にねじ込んだのだ、っと彼は結論づける気合の入れよう。ってか左翼図書館って何だよ。

そんな話をあんぐりと口を開けて聞いていた私たち。しかし山本君の興奮は止まりません。次は「もののけ姫」を例にとり、あれは「神殺し」の映画であり、たたら製鉄で財を成した資本家エボシが最後に「共生」を標榜した事は、神がいなくなった世界にこそ真の共生が生まれるのだという事を説いているのだと彼は続けます。

そこら辺から私はほとんど理解が追いつかなくなっていったので話の大半は覚えていませんが、とにもかくにも山本君はジブリ映画を批判しまくるのです。恐る恐る「じゃあトトロは、トトロはどうなのですか?」っと消え入りそうな声で質問をする他の友人。よもやあの可愛らしいキュートなゲテモノ、トトロが思想を持つ生き物などとは誰も思いません。しかし理論武装は完璧でした。


「トトロはな、トトロは共産ゲリラだ!」


力強くそう言い放つ彼の目に、最早「耳をすませば」に感動していた少年の目はありません。彼は大義の為、多くの事に「耳をふさげば」を繰り返していたのでしょう。

それからは他の友人も混じってジブリ映画の裏話が始まります。その中で聞いた話によると、「千と千尋の神隠し」は日本の遊郭を模した映画であり、千は貧しい家庭から売られていった娘だというのです。そしてお父さんとお母さんが豚になるところなどは、娘の身売りで得た金で身も心も豚のように腐っていく、農村の両親の様を表しているというではないですか。

真意は置いておいて、正直な話ショックでした。私の従姉妹は三姉妹で、千と千尋の神隠しが大好きなのです。大好き過ぎてビデオとDVDの両方をお年玉で買ったりしているのです。それが何ですか、遊郭の話だとかいうじゃないですか。あまりに可哀想です。言い方を変えると、三人姉妹そろってお年玉を風俗関係のDVDとビデオにつぎ込むって事になるじゃないですか。何だか凄い狂気を感じますし、可哀想と思うと共に、ちょっと興奮するじゃないですか。三姉妹と千と千尋を鑑賞するなんて機会があったら、そのエロスと社会問題と日常の狭間で、私の股間はタタリ神になりかねない。股間のオトコヌシがヤバい!本当、人間って逞しいよね。


しかしですね、こんな色んな事考えて映画見てもあんまり面白くないと思うんですよ。何も考えずに、それこそ半分口を開いてヨダレ垂らしながら「うう〜ん、気持ちいい…」なんて、恐らくピンサロで山本君がやってる顔して見てた方が絶対にいい。山本君はそれに気づいて「新宿・PM」で今日も指名料の2000円を、ご機嫌な顔して何も考える事なく嬢の谷間にねじ込んでいるはずだ。頭で何も考えずに、ありのままの姿を曇りなき眼で見ればよいのだ。そして感じればよいのだ。

そりゃあ純粋に映画や本を楽しんでばかりだったら、大学の学問に、なんちゃら表現論やらイマラチオ概論やらが存在しないってのは分かる。より背景知識を付けた方が楽しめるって人がいる事も理解しているつもりだ。

しかしこれを見て頂きた。そしてこの動画に書かれているコメントの悲惨さを是非とも見て欲しい。


芦田愛菜 CM 日清チキンラーメン ひよこ売り子


この動画、誰が何と言おうと圧倒的絶対的に可愛いじゃないですか。このCMの愛菜ちゃん、たまらないじゃないですか。可愛い愛菜ちゃんに、可愛い着ぐるみ。可愛い+可愛い=失禁、ってな、名古屋的発想がまたいい。オニギリおいしい!天ぷらおいしい!天むすで失禁!みたいな、そんな発想が素晴らしいじゃないですか。

それなのにコメント欄に巣くう豚ども言ったらない。


・「可愛いから何でもさせられるねーww」
・「きらい! 私にとってのチキンラーメンネガティブキャンペーン」
・「このCM流れたらチャンネル変えるのが日々の作業になった」


何なんだお前ら、何を考えて生きてんだタコ介どもが!可愛いから何でもさせられるんじゃなくて、可愛いから何でも出来るんだよ。土井たか子がヌイグルミ被れると思うか?あのラブリーなソングを歌えると思うのか!それにな、何がネガティブキャンペーンだ。チキンラーメンみたいな袋ラーメンは、俺みたいな金のない低能がモリモリ食うもんなんだから、ネガティブもポジティブもねえんだよ。どんな状況でも買うんだよ。そして中でも一番酷いのがこれ。

・「このような人達は同世代の付き合い方がわからないから、今後、絶対苦労するそして、人気がなくなったら…さぁ楽しみだ」


どうして素直に可愛いと言えないのか、どうしてありのままの愛菜ちゃんを見てあげる事が出来ないのか。どうして愛菜ちゃんの後ろにある、絶対綺麗じゃないし、ラブリーとは程遠い何かまで見ようとするのか。おまえらが愛菜ちゃんぐらいの時こんな事をネットで書かれたらどれだけショックか想像がつかないのか!ネットの誹謗中傷は一生消えない落書きなんだぞ!土井たか子さんごめんなさい!

私だって思う所は沢山あるのだ。演技があまりにもワザとらしい時があるとか、将来的にそんなに可愛くなりそうにないとか、私だって色々思う所はあるのだ。生理がいつ来るんだろう?とか一日中考えてるし、とにかく私にも考えてしまう事は沢山あるのだ。

しかしそんな頭から流れ出す声を意識的にでも遮断し、ありのままの姿を見る事が絶対に重要だと私は思うのです。ジブリの映画だってそりゃあ考える所は沢山あるでしょう。でも面白い、面白くない。この二択だけでいいじゃないですか。

最後に、コメント欄に一人曇りなき眼の持ち主がいましたので、その方のコメントを読んで締めたいと思います。

「お前ら曇りなき眼でこのCMをみろよ!どう考えても可愛い。圧倒的絶対的に可愛い!特に0:14とか神!たまんない!沢山チキンラーメン買って、次回作にも愛菜ちゃんを使ってもらえるように協力しようぜ! KUMASOMAN」


みんなもチキンラーメンを沢山食べて大きく、頭のおかしい人になろう!さあ、僕のように!