底辺ずし

中学校の頃、死ぬほど面倒くさいテストを作る、如何にも援助交際で女子高生を叱りつけ、でもやる事はしっかりやって、事後に100円単位の交渉を吹っかけそうな、ショーもないチクワ顔の教師がいた。当時、いやこれは今もだが、中学時代の私はお世辞にも顔がイイとはいえず、流行りの曲も聞かず、ファッションも野良仕事をするオッサンと大差なし。おまけに移動教室の際、自分とは違う他人の机に延々と自作の官能小説をしたためると言う、所謂気持ち悪い生徒だったので、これで頭まで悪かったら親は私をどう思うだろう、それだけは考えたくない!っとばかりに、結構真面目に勉学に勤しんでいた。よってチクワ先生の作る難解なテストには、努力が正当に報われないと、かなり腹を立てていた記憶がある。そんなある日の中間テスト、いつものようにウンコ先生の作るウンコテストを前にブリブリ思案する私たち生徒に、かの先生は「お前らは難しいテストだとガッカリするんだろうが、難しいテストほど、勉強してる奴と勉強していない奴の差がなくなるんだぞ。だからテストが難しかったら喜ぶべきだ」っと死ぬほど腹立たしい顔で言い放った。当時はクソの戯言とばかりに鉛筆をテストに叩きつけた私だったが、今考えるとこのウンコ教師の言う事はあながち間違いではない。

例を上げると、「Hi!Tom!This is a pen!」「No.I am hard fucker」などの簡単な英語を勉強している中学生1年生にセンター試験の英語の問題を解かせても、実力の差はそれほどでないだろう。それは彼らが悪いのではなく、習っていないのだから出来なくて当たり前で、カンや推察力なんかで、ブリブリとテスト範囲の勉強していた組より、根は結構頭がいいくせに、テスト期間中部活がないのをイイことに、女子生徒とイイことをしていた生徒の方がテストの点数で上回ってしまう事もありうるからだ。けれど、簡単なテストなら話は別である。ブリブリ勉強していた生徒は、Tomがハードファッカーである事を知っているし「Who is hard fucker?」という問いにも「Tom」と元気よく答える事が出来る。しかし不純異性交遊に勤しんでいた生徒は、教科書に何回もTomはハードファッカーだと書いているのに「Who is hard fucker?」の問いに「Yes. I am sex king」とか「My dad is」とか答えてしまう。そしてその結果は如実にテスト結果に現れてしまうのだ。

しかしこの現象はこと私たちの日常における「食事の価格と、人々の貧富」には当てはまらない。分かりやすく言うと、安価な食べ物はさして金持ちでも貧乏人でも食うモノは一緒だが、高級な食べ物ほど、人の貧富の差は如実に表れてしまうのだ。

それを実感してしまったのが、私の故郷SEIYUである。

SEIYUは夜の10時くらいになると、感情の全くない目をした夜勤バイトのお兄さんが、お総菜にペタペタと半額のシールを張っていく。タダでさえ安いSEIYUのお総菜が半額とあって、目をギラギラさせた飢えた深夜のハイエナどもが、死んだ目をしたお兄さんの後ろに列を成し、お気に入りの総菜に半額シールが貼られるや否やカゴに総菜を放り込み、勝ち誇った顔でレジへと並ぶのだ。

I am アルコール中毒な私は毎晩家で、何が楽しいのかビールやウイスキーをガブガブ飲む。例え飲み会があった日でも、飲み直しとばかりに、ガブガブと酒を飲む。よってこれら半額総菜は非常にコストパフォーマンスの高いつまみになるので、夕食代わりに半額唐揚げとか半額チクワ揚げとかを頬張り、ガブガブと酒を飲むのだが、この半額セールの目玉商品と言えるのが「寿司」である。

寿司と言えば高級な食べ物の代名詞。私が働く場所にも寿司屋が多く並んでいるが、そのどれもが信じられないほど高く、一巻で、ともすれば数千円なんてものざらだ。そんな寿司もSEIYUの必殺半額セールにかかれば一気に庶民の食べ物へ。定価で600円くらいのの、マグロやシラスがタップリ入った寿司が何と300円。これなら日給で生計を立てるお父さんにも手が出る金額だ。ビールでも買えば、家で気軽に金持ちの気分が味わえる。

しかしハッキリと言えるのは、これらの寿司は絶対に一巻数千円の寿司を食っているような連中は食わない。牛丼なんかの安価な食事は、恐らくどの階級層でも食ってるだろうし、同じく安価なコンビニおにぎり、カップラーメンなんかも、金持ち貧乏関係なく、同じものを食っているはずだ。しかしこの半額寿司は絶対に金持ちは食わない。何よりこれら寿司は、賞味期限がギリギリだからか何なのかは知らないが、マグロなんて木工ボンドのような味がするし、サーモンなんてコメの上にラードを布いて食べているような味がする。でも、頭の中では、高級な寿司!っというイメージがあるので、実際に美味しくなくても、寿司を食っているという満足感を得る事が出来る。けれどこんなものを、ある程度収入のある人間は、衛生面も考えて、食べるはずがないのだ。

よって、この「寿司」の半額セールに群がる奴らは、非常に身なりが酷い。結婚し子供もいるのかもしれないが、いい年して訳の分からない色に髪を染めた、金と時間と義理人情にルーズそうな夫婦。明らかに安月給風の、逆に失礼にあたるんじゃないかと思うほど、ヨレヨレになったスーツを着たサラリーマン。職業が何なのか知らないが、だらしのない腹をでっぷりと前に出し、焦点の定まっていない目をしているオッサン。これらの人々が死んだ魚の目をしたバイトのお兄さんの後ろに並び、半額シールが貼られたと同時に、すばやくカゴに寿司を突っ込み、次なる獲物を待つ。

こんな列の中に、以前は私も入っていたのだけれど、ふと周りを見渡し、客観的に自分を見てみると、何だか情けなくなり、最近はどうもこの半額寿司を食べる気にならないでいる。

金は持っていて損はないと思うし、貧乏よりも金がある方が幸せに決まっている。金で買えないモノなんてこの世にはほとんどないし、何より金を稼ぐ事は自らに価値を与える行為に等しく、結構楽しかったりする。でもやっぱり巡り合わせによって、どうしても平均よりも金を稼げない人間というのは沢山いる。そんな人がいなければ、上層部は潤わない。

けれども忘れてはならないのは、いくら高級な寿司が食えないとはいえ、決して腐った寿司を食えばいいという問題ではないのだ。金がなければ、牛丼をかき込み、金が無くても酒が飲みたければブラックニッカを呷ればいい。自ら中途半端な領域に飛び込み、心と態度まで腐らせる必要はないのだ。寿司なんか食わなくても、人はキチンと生きていけるし、半額寿司を手にした時点で、一度きりしかない自分の人生を、具体的にも抽象的にも貧層にするという事を自覚すべきである。

そんな事を考える今日この頃。最近は深夜のスーパーに行って、お目当ての「半額サーモンのシソ巻きフライ」に、半額シールが貼られないかと、今か今かと総菜コーナーでヤキモキしています。