我々はイヴを責めるべきか

google検索「幼女の下腹部にいたずら」で2番目に出てくるブログ、くまそのブログ管理人のくまそです。そんな卑猥なブログを見ている方々、ご機嫌いかが?

因みに1番目が「幼女レイプ殺人を犯す者たち:少年犯罪データベースドア」、3番目が「子供の犯罪被害データーベース 性犯罪」という非常にマガマガしいラインナップとなっております。書いてる方もアレだけど、検索で引っかかってくる人もかなりアレですねえ。


さてさて、今や小学生でもネットの検索で「おっぱい」と入れれば人様の娘のおっぱいが見れるという狂った時代です。

しかも形・色・大きさも何でもござれ。きっと探せば「パイ毛3、5ミリ未満」なんてイカレタ欲求も叶えてくれます。

しかしそんな時代にありながら、男達はやれゴスロリだビキニだヒモパンだ、ついでにハンダごてを5、6本持ってこい!などと叫びまくってる訳ですよ。

これって結構異常じゃないですかねえ?

女性の裸なんて腐るほど見る事が出来るのに、男達は裸を隠す道具である、言ってしまえば男の敵である衣服に情熱を傾けているんですから。

こんな事を考えていてふと思いだしたのですが、人間が服を着るようになったのは人類の母、我らがイヴたんが禁断の実を食べてしまったからなんですよ。


好奇心を抑えきれずに「ダメんなんだかんな!」っと神に言われていた禁断の実を食べてしまったがためにイヴちゃんは自分が裸でいる事を恥ずかしがり、服を着て、それを神が知ってしまった。

「ダメなんだかんなって、言ってたんだかんな!」っと神はブチギレですよ。そうして男には辛い労働を強い、女には出産の苦しみを与えアダムとイヴは楽園を追放されてしまったのです。

要するにこの聖書の記述から考えるに、男達は「労働」によって得たものは「情欲を掻き立てる衣服」であり、失ってしまったのは「どんな女性の裸も見れるハーレム状態」な訳ですよ。

これらを天秤にかけるに、果たしてイヴ様に憤慨したほうがいいのか、それともイヴちんに感謝したほうがいいのか、どっちなんだ!って考えてみましょうって話が今回の主旨ですね。


しかるにここでいう「労働」というものは罰なので、「働く事の幸せ」なんかの意味を付随させるのは間違いです。なのでここでは「労働=苦行」として考える事とします。

要するに苦行をしてまで各々が感じる女性のエロ衣装を手に入れる必要があるのかって事です。



さて、まず女性が常に全裸でいる事って果たしてハーレムな状況なのでしょうか。

確かに女性の裸というのは綺麗です。男性にはない曲線美を感じますし、上流の角ばった石を見るより下流のポチャポチャした石を見た方が心が和みます。丸っこいモノは人に安らぎを与えるんですねえ。

それにやっぱり私も男ですから「おっぱいが見たい!××が見たい!あれもこれもみーんな見たい!いや待て、落ち着け!そこまでは見たくない…」という姿勢を常に貫いています。

けれども我々は考えなければいけません。全裸の女性というのはもうそれ以上ノビシロがないのです。

考えてもごらんなさい。

我々が自転車に乗っている女子高生のパンチラを見たとしましょう。その日一日どんな事があっても幸せです。スパゲティを茹でようと箱を引っ張り出したはいいものの、小ぶりのゴキブリちゃんが二匹寄り添うように愛を囁いたとしても「やった!タンパク質だ!」っと思えるほどに気分はフニャフニャです。

でもこれが自転車のサドルの裾から見えたのが「具」だったらどうでしょうか?

何故パンツを履いてないんだと動揺し、何だかその日は落ち着かない気分でゴキブリにも気付かづスパゲティを茹でてしまうでしょう。


裸にはロマンがないのです。裸を覆っている服装があるからこそ裸は輝くのであり想像力をかきたてるのです。

常に全ての女性が裸でいると想像力なんていりません。想像するモノの最終到着点が目の前に常に鎮座為されている訳で、想像の余地がない。


想像力。

これは私たち人間とチンパンジーを分ける重要な要素。

人は想像力があるからこそどんなに辛い状況でも楽しい事を考える事が出来るのであり、他人の想像を垣間見ては思考に耽るという高度な楽しみが出来るのです。

想像とは現実にないものを脳内が補完するという行為。そして何より本能に根ざした欲求を脳内でもてあそぶ事にその原点はあります。

もう皆さんお気づきでしょう。


女性が服を着る事により「想像」は生まれたのです。


だから我々はイヴに感謝しなければならない。「労働」なんて知った事か!私は声を大にしてこれを言いたい!


こんな事をいつまでもしつこく考えているから人並みの人間関係が築けないんでしょうねえ。